江の島のメイン通りを人生のステージに、ご両親が築いた店を次世代へつないだ米井さん。店の顔として長きにわたって磨いてきた〝おもてなしの心〟が、今日も周囲を笑顔にします。
江の島っ子なのだそうですね。
米井さん江の島の入口から江島神社までの参道「江の島弁財天仲見世通り」で物産店を営む両親の元に生まれ、店で育ちました。手伝うのは当然のことで、本格的に店に入ったのは女学校卒業後、私が二十歳の頃でした。
すぐさまご活躍を。
米井さん親戚から紹介され二十四歳の時に結婚し、同年の晩秋に第一子を出産しました。慣れない子育ても店を切り盛りしながらで。振り返れば、常に店を中心とした生活でしたね。
従業員の食事の用意も大変だったのでは?
米井さんかつては各地から若い子たちが働きに来ており、店の二階で一緒に暮らしていました。実は、店の伝統としてお勝手仕事は男性の担当で、私は食べる専門(笑)。店を継いだ長男も料理が得意です。
看板を守るためには休む暇もなく?
米井さん本当に休みなしでしたね。学校行事にも顔を出せず、恨まれたものです。唯一出席できたのは、二人の息子の高校入学式。店に親を取られたことがよほど嫌で、次男は会社勤めを選んだようです。
両親を看取ってから、商店街や組合主催の観光ツアーに参加するようになりました。店の閑散期に女性だけであちこち、全国の観光地を巡りました。学生時代の友人たちともよく旅をしました。その間、主人がお店番。お酒が大好きでしたから、主人は組合の旦那衆との夜の付き合いを楽しんでいました。そんな主人も私が六十七歳の時に他界し、すでに店を継いでいた長男を支える忙しい日々で、寂しさを埋めました。
代替わりで店の雰囲気は変わりましたか?
米井さん大学卒業後に沖縄で数年修業を積んだ長男が新商品を次々と開発し、物産店は様変わりしました。屋号も「朝日堂」から「あさひ本店」へ。ムラサキイモが流行した際は、単身九州へ出向き生産者さんと契約、「紫芋饅頭」があっという間に店頭に並び驚きました。テレビでよく紹介される「丸焼きたこせんべい」は、商品化からすでに約二十年。目玉商品はさらに増え、仲見世通りの賑わいも戻りつつあり、嬉しく思います。
今はどのようにお過ごしですか?
米井さん八十五歳を機に引退し、米寿を祝う年にこちらへ越してきました。選んだ理由は、小学校時代の同級生が住んでいたから。時々は江の島の家へ戻るし、友人とも会ったりして、これまでと変わらない生活ですが、優しいスタッフに囲まれて安心・安全に過ごせています。今一番の楽しみは、併設のデイサービスに通うことです。