vol.11

自分史

塩塚修さん「何事も納得するまでやり遂げる」

インドネシアのジャワ島へ若くして渡り、数年で起業した父親の実行力に学び、塩塚さん自身もどんなことにも挑戦。多芸多才な文化人として、人生を謳歌されています。

ジャワ島生活は長かったのでしょうか?

塩塚さん 私が生まれた当時でも、ジャワ島だけで人口は1億人以上。日本の個人商店が約2千軒あったものの、日本人学校がなく、私が小学校へ上がるタイミングで兄と姉の3人で東京の伯母の家へ移りました。しばらく親元を離れましたが、1941(昭和16)年6月までに母親と妹、弟たちが帰国し、父親は12月10日に神戸港に到着。戦争によって家族がまた一つになれたのでした。

激動の戦中・戦後を迎えられました。

塩塚さん資産を全て置いて帰国せねばなりませんでしたから、負担にならないよう奨学金を得ながら、学業とアルバイトを両立させました。戦争が終わり、電車の本数は激減。混雑した電車の車窓から煙の立たない煙突群を見ては、「日本経済を立て直さなければ」と思ったものです。

日本の将来を思慮し、勉強一筋の学生時代を?

塩塚さん実は、中学一年生から始めたサッカーを社会人になっても続けました。学生時代にインターカレッジの全国大会へ進出したこともあるのですよ。今も足腰がしっかりしているのは、サッカーのおかげだと思っています。

まさに文武両道!その後も、東南アジアとは関わりが?

塩塚さん国内外の工場への新技術導入が私の仕事で、あるときジャワ島を訪れる機会に恵まれました。幼い頃のジャワ島での写真を見せたら、とても歓迎をしてくれましてね。東南アジアはいいなぁと改めて思い、会社に願い出てマレーシア駐在が実現しました。ハレー彗星が1986(昭和61)年に地球に最接近し、話題となりましたね。周回軌道を調べ、星図と照らし合わせ、マレーシアの自宅2階から南天を仰いで鑑賞しました。

星図の読み方をどこかで学ばれたのですか?

塩塚さん何をするにも独学です。マレーシアではクラブ仲間と英詩の会も開いていました。会のリーダーは、頭脳明晰なインド系ドクターのボブ、共通語は英語でした。メンバーに請われて、私も俳句の英語版テキストを作りましたよ。
調べて形にすることは喜びであり、決して苦ではありません。心癒してくれる大好きなクラシックは1楽曲ごとに調べて、自作の解説書を完成させました。形にするという点では、65歳から始めた、スケッチして着色する水彩画も同じ。どちらも好きな世界です。
多趣味で忙しい日々ですが、住み慣れた地で安心を得ながら、夫婦二人、悠々と暮らしています。

結婚50年の記念旅行でエーゲ海へ。旅先で左ページにスケッチをし、戻ってきてから右ページに描き直し、風景を脳裏に浮かべて着色。余白には心に浮かんだ詩を書き入れています。
島崎藤村の詩『椰子の実』を塩塚さんご自身で漢詩にされた詩文です。
マレーシア・マラッカの街を見下ろすように凛として立つサビエル像の水彩スケッチ画(1996年)。聖フランシスコ・ザビエルの詩を日本語で書き、それを中国語と英語の詩にも翻訳されています。