vol.19

自分史

杉本 善嗣さん「人生 私の足跡」寄稿文より

生を享けたのは、関東大震災の年。震災や戦争からの復興、近代化へ向かい急速に進む時代の中、積み上げた人生経験の一端を教えていただきました。

生まれも育ちも東京なのですね。

杉本さん生まれは下谷区(現台東区)です。神戸出身の父、栃木の藤岡出身の母との三人家族で、後に淀橋区(現新宿区)へ移り、料亭に干菓子を納める和菓子工場を営んでいました。干菓子の名は『江戸の月』だったと覚えています。

子どもの頃の思い出をお聞かせください。

杉本さん関東大震災から6年が経過したある夏の日のことでした。急に空が薄暗くなり、ふと見上げると巨大な物体が空を覆うようにゆっくりと動いていました。ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」が世界一周旅行の途中、日本に立ち寄ったのです。その巨体にはとても驚かされました。それから、混乱した世情の中で起きた満州事変、陸軍青年将校らのクーデターである二・二六事件。街角に立つ兵隊の着剣姿は、まだ12歳前後だった私にとって恐ろしい記憶として残っています。

青年期は、さらに激動の時代へ…。

杉本さん覚悟はしていたものの、軍隊への召集令状(赤紙)にこれでこの世とお別れと暗澹としました。辛くて脱走する補充兵もいました。中野から徒歩で通った代々木の陸軍練兵場には2人乗り小型戦車が展示されていて、中を見せてもらったことがあります。兵役解除後、次は徴用令状(白紙)で、満州国、万里の長城の麓の街、山海関という山村へ。配属された水の電気分解工場ではボイラー係でした。満鉄特急「あじあ号」で北京へ出たこともあります。日本よりもレール間隔が広く、非常に大きな蒸気機関車でした。終戦後、急遽の引き揚げが言い渡され、何もかも置いて帰国の途に。船上から見る日本の島影に、嬉しさ、懐かしさ、さまざまな感情が込み上げました。

復員後、大企業にご就職されたとのこと。

杉本さん就職先は大手自動車メーカーで、村山工場での所属はエンジン部でした。定年まで勤め上げ、そこからビル管理業界へ転身。練馬や代々木で責任者を務めた後、同業他社に副主任として再々就職。上と下に挟まれ苦労しましたが、主任にもなり、総体的にやりがいのある仕事でした。

趣味も充実されていると伺っています。

杉本さん歌好きで、二度の挑戦でのど自慢番組の予選を通過、栃木文化会館で見事に特別賞をもらいました。愛好した社交ダンスは、シャドー練習(※)のみラジオ体操後に続けています。東村山は私の旧勤務地であり、妹の嫁ぎ先、息子家族が住まうご縁のある地です。ここでダンスがお上手な方とも出会え、長生きはするものだとつくづく思っているところです。
※一人で行うステップ練習のこと

アメリカ・レイクハーストを出発、ドイツ・フリードリヒスハーフェンに寄港し、日本をめざした「ツェッペリン伯号」はいったん土浦を通り過ぎ、東京を回ってから戻ってきて、霞ヶ浦湖畔の格納庫に着陸しました。(1929年8月19日)(写真提供/土浦ツェッペリン倶楽部)
ご結納の日に宿泊された佐賀県の嬉野温泉「大正屋」の前で、お嫁さんのご両親と(右側:杉本さんご夫妻)。翌日は4人で祐徳稲荷神社を詣でました。
自粛生活の中、引揚者の新聞記事に触れ、強く共感された杉本さん。すぐ筆を執り、『人生 私の足跡』と題した作文をご投稿くださいました。今回、文書でのやり取りで追加取材をし、記事にまとめ直しました。上は最初にご投稿いただいた原稿用紙を撮影したものです。