律令制の確立により、五畿七道で区分された奈良時代。上野国・下野国と武蔵国の国府(国分寺)を結ぶ官道、東山道武蔵路が通る東村山は、政治と文化に接する立地にありました。鎌倉時代には鎌倉と武士の拠点を結ぶ鎌倉街道に久米川宿がつくられ、東村山は軍事的にも経済的にも重要な役割を担うことになりました。
さらに江戸時代には、青梅の石灰や薪炭を江戸へ運ぶ青梅街道が開かれ、柳瀬川を利用した運搬も盛んになり、東村山には人と物資が流入しました。そして物流が鉄道の時代へ移ると、甲武鉄道(新宿〜八王子)、川越鉄道(国分寺〜川越)が続けて開業。都民の水道水源としてつくられた村山貯水池(多摩湖)が観光資源となり、西武鉄道村山線(現・西武新宿線)も新設され、東村山は高田馬場と鉄道で結ばれました。
関東大震災後、さらに鉄道網が整備され、東村山は急速に宅地化が進展。今では市内に9つの鉄道駅を擁し、都心へアクセスしやすい利便性の高い住宅都市として成長を続けています。
古代から人と文化が往来し、武蔵野の農作物を供給してきた東村山では、今も都市農業が活発です。市民農園のほか、農家の指導の下、種まきから収穫までの本格的な体験を子供から大人までできる農業体験農園もあります。市とJA共同の直売所や生産者による農園での直売では、新鮮な農産物を入手することができます。
農家の方々と学校の交流も図られています。生産者への感謝の気持ちを育み、自然の恵みを実感できるよう、市内の公立小中学校の給食には地場野菜を積極的に取り入れています。学校給食を通じ、郷土への関心を深める食育が推進されているのです。
郷土愛は地元企業にも育まれています。富士山の伏流水を地下から汲み上げ日本酒を醸す蔵元では、生粋の東村山人集団が精力的な新商品開発に取り組んでいます。地場野菜をふんだんに使った調味料メーカーでは、ご当地名物グルメ「東村山黒焼きそば」を完成させました。9月6日をクロの日として、学校給食にも登場。市内の約100の飲食店が独自にアレンジし、定番メニューとして地元に定着しています。
東村山とその周辺地域に由来する方言に「のめっこい」という言葉があります。人と人との関係が親しい、仲の良い間柄を意味します。街の魅力を伝える市の広報で、東村山を「のめっ恋まち」としているのは、愛着を持ってほしいという思いから。そんな東村山の中でも、郷土愛が育つ学校の集まる文教地区に、「ウエリスオリーブ東村山富士見町」は誕生します。近隣には市民の憩いの場として親しまれる都立東村山中央公園が広がります。緑豊かな自然に近く、都心とつながる高い交通利便性も備える東村山は、これからも住みやすい街への進化を続けます。