vol.10

自分史

滝瀬銀造さん「改善を重ねて使命を果たす」

今、私たちが当たり前のように享受している旅客サービスの礎を築いた功労者。1998(平成10)年に、勲四等瑞宝章を受章された滝瀬さんに、多くのお話を伺いました。

戦前、戦後の激動の時代に、数々の功績を残されたと伺っています。

滝瀬さん総本家の長男に生まれ、祖父の厳格な教えの下に育ちました。小学校1年生で名前を漢字で書けたのは、私だけでしたね。以来ずっと級長を任じられました。16歳で国鉄に入職し、配属されたのは信濃町駅。近代化の完成へ向け、改善すべきことが山積しており、服務と勤務関係法規を深く研究しました。心血を注いでいた折、志半ばで招集されたのです。

戦地から妹さんへ宛てた自筆の絵ハガキに、天性の能筆の力量が遺憾なく発揮。「一日一善の習慣をつけ、よく家の手伝いをするように」と結んでいます。

入職後5年で招集、戦地に約4年間。終戦翌年に職場復帰されました。

滝瀬さん荒廃した信濃町駅を見て、決意したことがありました。神宮外苑の玄関駅として、徹底的に美しくしようと。自ら掲示板の文面整理と規格化も行い、駅舎の美化を実現し、管内全駅の美化推進へ繋げました。次の勤務地、東京駅では全職員の指導監督にあたり、戦後の混乱状態にあった出札業務の正常化にも努めました。

混乱を収めるにあたり、どのようにして人心を得たのでしょう?

滝瀬さん信濃町駅に勤務していた頃、夜間大学に通いました。修めたのは労働学。労使関係では、管理者が一体となり献身的な努力が必要だと学びました。職務の遂行には常に厳正を旨としつつ、温厚な態度で接するところから、一目置かれていたようです。東京駅の次は綱紀粛正の指導も行う総裁室へ移り、数年後に宇都宮駅駅長に就任。遵法闘争が激しい時期で、多くのストライキが起こり、1975年の8日間にわたる大規模ストライキの際は、上野駅駅長として采配をとりました。足止めされた旅客者に、食事や寝る場所の手当てをするにも、膨大な数でした。混乱時を無事に切り抜けられたのは、経験と知識を余すことなく活用できたからでしょう。

安全確保に尽力されたのですね。

滝瀬さん上野駅駅長時代は、輸送スピードが増す中で、安全確保を最重要課題に、旅客サービスの一層の向上にも対策が必要でした。この頃から看板表示の色分け、案内のピクトグラム化、駅案内パンフレットの設置などが始まったのです。

仕事一筋で、奥様は寂しがられたのでは?

滝瀬さん定年退職後は、夫婦で旅行を楽しみましたよ。妻とは喧嘩一つしたことがなかったです。私が骨折で入院している間に急逝し、退院後の住まいとしてウエリスオリーブ武蔵野関町に入居しました。近住の娘が入居に関して色々と動いてくれ、今は穏やかに暮らしています。毎晩お酒を二合が健康の秘訣です。

想い出のアルバム