vol.23

自分史

菅 陽一さん「人とつながり得た温かな縁」

仕事もボランティア活動も趣味も、何事にも真正面から向き合い、常に一歩前へ進む努力を続けた人生。そこから生まれたのは、周囲を気遣い、穏やかな空気を生み出す感性でした。

NTTの局外線路部門一筋だったと。

菅さんそれはもう一筋45年です。とてつもない勢いで変革が進んだ時代と重なり、日本の高度成長期の発展に私もこの身を捧げました。

どんな業務にあたられていたのでしょうか?

菅さん通信回線が未通の場所での線路の敷設、災害などで被害を受けた線路・設備の復旧などの工事責任者が長かったです。設計に長じており、厳しい状況でも突き進む遂行力を評価され、東京から1000キロメートル離れている小笠原諸島の父島、母島の現場や噴火被害が甚大な三宅島をも赴任地に、責務を果たしました。

随分、遠い所へ。

菅さん伊豆諸島は飛行場がありましたが、当時、小笠原諸島へは船のみで太平洋の荒波に揉まれて丸一日。離島時は思わず涙がこぼれましたね。工事期間は1カ月ほどでも、島の人たちが紙テープで見送ってくれて。

地域貢献への感謝の気持ちの現れですね。

菅さんボランティア活動には興味があり、定年退職後に地元地域の自治会長補佐役を務めました。当時から人手不足が大問題で、どうにか解決しようと奔走しました。夏祭りなどの行事の運営円滑化を目的とした「自治会をサポートする会」を創設し、児童の登下校時の防犯監視もしました。

ご自分のための時間を全くつくらず?

菅さん家族旅行もしましたよ。車の運転が好きで、東北道を走り、フェリーで北海道とか。鳥羽の方へも車で行きましたね。旅と旅先でのプレゼントは、現役時代に家庭を顧みなかったお詫びのようなもので。それから、私の人生に大きな意味をもたらした木版画にも打ち込みました。

作品を拝見しました。版画作家さんですね!

菅さん下絵を描き、木版を彫り、紙に刷る。後には仲間と展示会を開き、出展するための作品テーマやモチーフの模索のためのスケッチ旅も企画しました。

始められたきっかけは何だったのでしょう?

菅さん学生時代の友人から届いた年賀状で、水彩画のようで、そうでもない。感動してすぐ友人に電話し、日本セカンドライフ協会や木版画教室の存在を教えてもらったのが入口です。学生時代から絵を描くのは得意でしたが、本当に熱中しました。全盛期に交わした暑中見舞い、年賀状は各300枚前後ですね。

情熱は変わらず?

菅さんもう制作はしていませんが、皆さんが利用されるカフェで木版画展ができ嬉しく思っています。すでに旅立った妻のために入居を決めたこの場所で、新たなつながりが生まれていることにも感謝しています。

木版画教室の仲間と始めた「木版画展」会場前での集合写真(2005年6月撮影)。菅さんは、後列右から2番目。幹事役をこなしていました。
第12回極美展(会期:2006年12月19日〜12月24日、会場:東京都美術館)において「極美賞」を受賞した『武家屋敷』。山口県までスケッチしに出かけ、1カ月ほどかけて制作したサイズ:365×540㎜の大作です。
週刊『地球旅行』の全100冊をまちライブラリーへご寄贈。外出が難しかった時期に、ご入居者さまの心を大いに慰めたそう。