vol.7

自分史

番外編:立川 於兔彦さん「変化のない人生なんて、 つまらないじゃない」

いま改めて語り継ぎたいあの方。100歳を前に 「誰かの役に立つことができれば」とスタッフと共に 講演会を準備されていた立川さん。今回は娘さんにお話を伺いました。

最高齢でほぼ自活。

ひとみさん(次女) 健康志向でしたね。横浜に住んでいるときは町会で健康部長のような役に就き、健康体操やラジオ体操などの指導を前に立ってしていたそうです。離職した78歳のとき、横浜から伊豆の熱川へ移り住んだのですが、新聞配達エリア外で、山の下まで新聞を取りに行って戻って70分、毎日歩いてました。

熱川へはご家族で?

ひとみさん(次女) 父が48歳のときに母が急逝し、以降は子育ても男手一つで。私たちが巣立ってからは、ずっと一人暮らしでした。そのためか、子どもに相談することはなかったですね。一目惚れしたという熱川の一戸建てへの引っ越しも一人で全て手配していました。

熱川から新小岩へ移られたのですか?

ひとみさん(次女) 全て一人でこなせてしまう父でしたが、90歳を超えてさすがに心配になり、別事業者の施設へ入所してもらったのです。そこで2年半くらい過ごしましたか。車椅子に乗るようになり、私が長らく住む新小岩へ来てもらいました。

新小岩での生活は、どのようなものだったのでしょうか?

予定していた講演会の資料を藤波さんが後日まとめた冊子

ひとみさん(次女) 以前の所では1階へ降りても受付の人が不在であることが多く、何かと不便でしたが、ここでは誰かが必ずいます。自分のことを話さない寡黙な父でしたから、体調が悪いときすぐにくれる連絡は、とてもありがたかったです。シルバーカーを押せば駅前に買い物へ行けるようになり、自分の思うような生活に戻れて嬉しかったと思います。100歳の誕生日を盛大に祝う計画も立ててくださり、コンシェルジュ、ご入居の皆様に感謝しています。あと3カ月で100歳というときに他界し、とても残念でした。講演会の資料や準備の様子がまとめられた冊子で、父が「子どもたちには本当に恵まれた」と言っていたことを初めて知りました。もっと親孝行ができたかもしれませんね。

ウエリスオリーブ新小岩での恒例イベントに参加して、赤ワインに舌鼓。(1F食堂ラウンジ)

どんな方でしたか?

ひとみさん(次女) 91歳のとき、パソコンを始めたいと言うのでプレゼントしました。独学で習得し、好きな世界史を自分なりに編集して冊子にし、月2回、6年ほど孫たちへ送ってくれました。ボイラなどの設計を仕事とし、技術指導でアジアへは行っていましたが、私たち一家の転勤先、ヨーロッパへもはるばる訪ねてくれました。常に変化を求め、やると決めたら実行できる、すごい人でした。

ご家族のアルバム