vol.3

あの街探訪

鵠沼:継承していきたい風景

「江ノ電」の愛称で親しまれる江ノ島電鉄線。古都鎌倉と湘南江ノ島をつなぎます。(写真提供/藤沢市観光協会)

都心からのアクセスが良く自然の美しい観光地として、広い世代に愛されている古都鎌倉。三方を山に囲まれ、一方が海へ開いた地には由緒ある社寺が散在します。鶴岡八幡宮と参道の若宮大路へはJR「鎌倉」駅から徒歩で、鎌倉大仏へは江ノ島電鉄線「長谷」駅から徒歩が定番コースです。

江ノ電マップ(写真提供/藤沢市観光協会)

「江ノ電」の愛称で親しまれる江ノ島電鉄線が、文化の異なる古都鎌倉と湘南江ノ島をつないで百余年となります。明治35年の開業当初の開通区間は、「藤沢」駅—「片瀬(現江ノ島)」駅間で、「鎌倉」駅までつながるのはまだ先のこと。当時の終点、「片瀬」駅から多くの降車客が訪れた先は、日本有数の集客力を誇る鵠沼海岸海水浴場でした。この海水浴場の歴史は古く、開業は大磯、由比ガ浜に続いて明治19年で、東海道線開通の前年にあたります。明治政府が招聘したドイツ人医師の提唱により整備された、健康促進のための海水浴場で、清爽な空気、夏涼しく冬暖かい海洋性気候が選定理由でした。

都心へ近く、保養に良いとされた鵠沼は、江戸末期までは農漁業が営まれた地で、南部は幕府の銃術鍛練場でした。今でこそ街の風景を作る黒松ですが、当初は土地改良と砂防対策のために先人たちが植えたものでした。海水浴場開業とほぼ同時期に始まった、日本初の別荘地開発の条件に黒松の植樹があったのです。黒松を育てるための水路を巡らし、失敗を繰り返しながらも植樹は続けられ、いつしか松原が広がり、華族や各界の名士たちの別荘地、保養地としての鵠沼が形成されていきました。

別荘のほか、海岸近くには海水浴客を受け入れるため、「鵠沼館」、「対江館」、「東屋」の3つの旅館が建てられました。今なおその名を語られる「東屋」には、明治・大正・昭和のそれぞれの時代を代表する著名な文士が多数逗留し、当時の作品中に折々の鵠沼風物を描写しています。

片瀬西浜・鵠沼海水浴場の夏の賑わい。海岸からは南に江ノ島、西には富士山を望めます。(写真提供/藤沢市観光協会)

鵠沼海岸別荘地の計画的開発・分譲が始まった頃、鵠沼は鉄道建設や紡績産業などにより豊楽期を迎えていました。活気を形に残すように、鎮守の皇大神宮に9基の人形山車が奉納されます。9つの氏子町内で製作したもので、それぞれ3層式で高さ約8メートル、那須与一や源頼朝など歴史的人物の人形を頂く山車には精巧な彫刻が施されています。8月の例祭で9基の人形山車が境内に参進する勇壮華麗な行列は盛観を誇り、例祭のハイライトとなっています。

例祭(8月17日)で皇大神宮境内を参進する壮麗な人形山車。藤沢市重要有形民族文化財。(写真提供/藤沢市観光協会)

鵠沼の皇大神宮の創建は9世紀と伝わり、主祭神は三重県伊勢市の伊勢神宮内宮(皇大神宮)と同じです。それもそのはず、鵠沼の地は平安時代後期に伊勢神宮に寄進されたからです。その寄進者とは、歌舞伎の演目「暫」の主役、鎌倉権五郎。罪のない人々が捕らえられ、まさに皆殺しにされようとする危機一髪のときに「しばらく〜」と大声を掛けて現れるシーンは、あまりにも有名です。

皇大神宮は、烏森神社とも呼ばれています。

時は流れ、鵠沼が別荘地から住宅地へ姿を変えようとしていた頃。この権五郎と祖を同じくするといわれる、鵠沼の邸宅街としての発展基盤を作った人物がいました。高瀬弥一は中学校教諭、藤沢町会議員を務め、父の代で得た鵠沼の広大な敷地と私財を投じて自動車道路の敷設に尽力しました。道路整備に着手してすぐに関東大震災が起き高瀬邸は全壊しますが、地主の協力も仰ぎ、藤沢駅前と鵠沼海岸をつなぐ新道を震災から2年で完成させました。人力車から自動車社会へ移る時代のニーズに応えたのです。この新道は、今もバス通りとして地域の交通を大きく支えています。

現在、鵠沼松が岡1〜3丁目に掛かる「鵠沼」駅前エリアは、「ニコニコ自治会景観形成地区」に指定されています。建物の高さや意匠、外壁の素材や色、敷地内配棟計画に一定のルールを設定し、同時に緑化も推進。涼やかな松籟、優雅な樹影の黒松、石垣に落ちる緑陰—名士たちが築き、文化人たちが愛した、情緒ある街の風景がここに守られようとしています。

鵠沼マップ