vol.28

自分史

池田 匡さん「的確な報道のため東西に奔走」

日本のテレビ報道の黎明期に、生まれ育った長崎を中心に駆け回った人生。多感な少年時代に経験されたお話もうかがいました。

大変な読書家とうかがっています。

池田さん父親が教職者で、幼い頃からさまざまな本に囲まれていました。文章で物事を伝える面白さを本から学びましたね。
記者としての資質である好奇心と探究心は、海外の切手に触れ芽生えたものかもしれません。
家からほど近い修道院の外国人神父が、希望者には毎回数枚の外国切手をくれました。切手に描かれた人物、建物、風景、全てが新鮮。
「日本以外にも国があるんだ!」と、まだ8歳の私は驚嘆しました。

その後の学生時代は?

池田さん小中高は家から50メートル圏内、中学まで用を足すのは自宅のトイレ。その都度、学校を抜け出す悪ガキでしたね。そんな狭い世界で生きていていいのかと父親と話し合い、大学進学で上京しました。

そして、また長崎へ。

池田さんもともとマスコミ志望で、たまたま大学で長崎放送の初募集を見つけ、即座に帰崎と受験を決めました。
長崎放送では念願の報道部に配属が叶い、入社早々ネタ拾いの日々でした。県警察本部と市内各署が守備範囲、休みは月に二日か三日。とにかく朝から晩まで密着しました。今思えば、あの〝サツ回り〟が一番性に合っていました。

ずっと記者を?

池田さんテレビニュースの定時放送がはじまった後は、主にデスクとして業務をこなしました。東京支社では国会担当記者として、記者クラブに日参していましたね。

原爆も体験されたと。

池田さん昭和20年8月9日のあの日、班長宅での自習後、全員が帰宅しようと庭に面した縁側に出たところ、突如、目もくらむ白熱光に包まれました。その後、すさまじい爆風と轟音が続きました。しかし、山が多い長崎の地形と数々の偶然によって、私の一家は無事でした。
あれから80年。無念の思いのなかで亡くなられた多くの戦争犠牲者のためにも、この命を大切にしなければ……と思っています。

ご家族も大切に。

池田さん恩師の次女を娶り、一男一女に恵まれましたが、本当に仕事一辺倒で今になり後悔しています。学校や身近な行事に参加するなど、もっと家庭を顧みていればと。才色兼備(?)の愛妻は69歳で病没し、本当に残念で仕方ありません。

奥様が亡くなられてから東京へ?

池田さんそうです。愛着深い長崎を離れ、心配する子どもらのそばへ。近くに図書館と郵便局を条件に探し当ててくれたのが、このウエリスオリーブ新小岩です。決め手は大きな檜風呂で、見学して即決でした。
新しくできた檜風呂友と外食したり、館内施設を活用したサークル活動を楽しんだり、今が一番健康的な生活を送っています。

趣味として昇華した海外の切手蒐集。テーマを設け、丁寧な解説文も付記。今も交流ある日本郵便趣味協会の展示会でも披露されています。
標高333mの稲佐山に当時は放送スタジオがありました。山頂から臨む長崎市街。
写真提供:(一社)長崎県観光連盟
長崎での色濃く残る思い出、長崎くんち。踊り町が花、池田さんは神輿を上げる町だったそう。
写真提供:(一社)長崎県観光連盟